庄内海岸の砂防林 2017

庄内探訪.

庄内海岸の砂防林

総延長33kmの防砂林(写真提供・山形県庄内総合支庁森林整備課)

総延長33kmの防砂林(写真提供・山形県庄内総合支庁森林整備課)



 
庄内海岸は400年前、広葉樹におおわれていた。
しかし、伐採により砂漠化がすすみ、飛砂と洪水が人々を苦しめた。
江戸期に植林が始まり、それが現在の庄内海岸一帯の防砂林に繋がっている。

◇森林が荒れ地に

遊佐町、酒田市、鶴岡市にまたがる庄内海岸の砂防林は、総延長33km、幅は1.5kmから3kmに及ぶ。飛砂から庄内平野の稲作や砂丘の農業を守る役割を果たしているが、400年ほど前はうっそうとした広葉樹の森林であった。それが、家事や年貢の「塩」を作るための薪として、さらには建築用の木材として無計画に伐採が進行。豪族同士の争いも加わり、庄内砂丘は草木も生えない荒地に変わり果ててしまった。もともと砂地であったために自然に再生するのは極めて困難で、家や田畑は飛んでくる砂に埋まり、河口を塞がれた川の水は行き場を失って氾濫を繰り返し、ついには村が滅びるという最悪の事態に陥った。

◇植林事業の先人

クロマツ(撮影・弥一郎)

クロマツ(撮影・弥一郎)



こうした飛砂と洪水から地域を守るために、植林事業を立ち上げた先人として、来生彦左衛門(1659〜1748)、佐藤太郎右衛門(1692〜1769)、佐藤藤蔵(1712〜1797)、本間光丘(1732〜1801)、曽根原六蔵(1742〜1810)などが知られる。
遊佐郷天神新田村に生まれた来生彦左衛門は、ウルシなどを植え、すでに砂丘地における植林を始めていた越後・村上に1704 年に赴き、クロマツ等の種子を持ち帰っている。苗木の養成方法を研究しながら最上川河口から吹浦まで植林し、庄内砂丘地植林の先駆者と言われている。それに対して佐藤太郎右衛門は、最上川以南の砂丘地の植林を指導する一方、赤川下流の治水事業も行って新田も拓き、農業の発展にも貢献した。
佐藤藤蔵は藤崎地区を、本間光丘は酒田西北部を、曽根原六蔵は菅里地区を植林しているが、庄内特有の強風と日本海からの塩分、それに強烈な乾燥という生き物には厳しい砂丘に根付く植物は少ない。このような過酷な条件に耐える樹木としてクロマツが注目されていたが、それを植えるまでは砂地に強い草を植えて砂丘の表面を落ち着かせ、次にネムノキやグミなどの砂地に強く地力を肥やす潅木を植える必要があった。しかし、その植林方法にたどり着くには、先人たちの長い試行錯誤があった。
その様子は、『従五位 佐藤藤蔵重好翁事績概要』というA2二つ折りの資料で知ることができる。

◇現代植林を切り拓いた藤蔵

西山の防砂林(撮影・弥一郎)

西山の防砂林(撮影・弥一郎)



森林の伐採で不毛の地と化していた出羽国飽海郡西海岸一帯は、稲作の望みもまったくなくなり、庄内藩の財政にも暗い影を落とし始めていた。藩主酒井候はその惨状が著しいことを知り、1745年救難を志願する志士を探した。その求めに進んで応じたのが、酒田で造り酒屋を営んでいた藤蔵の父・藤左エ門。救世救民の大事業に私財をなげうつ決断をした藤左エ門は藤蔵を伴い、遊佐郷西砂山に防砂林を造成するために砂丘に代家を建て、要所を大きな竹垣で囲ってクロマツを植林した。しかし、困難の連続であった。
 1751年酒田の本宅が類焼し、翌年藤左衛門が死去。藤蔵は1755年藤崎村に移住し、土壌を改善するために柳、ぐみ、ネムノキ、藤、雑草などを試して植栽の秘策を探り続けた。その結果ようやく、砂地を改善するにはネムノキが有効だという結論に達した。藤蔵によって編み出されたとされるこの手法は本間光丘にも伝えられ、さらには現代の植林事業にも広く活用されている。こうして藤蔵は、85 歳で没するまでの57年間を植林に捧げ、息子の藤五郎にその業が引き継がれた。
 藤蔵の努力が実り、西浜一帯には白砂を背景とした緑の松林が林立し、その向こうには美田が広がっている。1929年、遊佐浜山に大きな足跡を残したとして、藤蔵に従五位の栄誉が授与された。藤蔵の植え付けから250余年、その偉業を讃えるとともに遺徳を偲ぶ「藤蔵祭」が毎年11月10日に行われている。その祭りでは、小学生たちによる研究発表も行われており、地域の歴史と文化を語り継ぐとともに、藤蔵の偉業を未来に伝えている。

神事の状況-3 直会の状況①-3 「藤蔵祭」