城輪柵があった時代 その②
酒田市教育委員会社会教育課の齊藤亮文化財係による後半は、鳥海山、市条、新田目城です。国づくりの跡は随所に残っています。
○正二位勲三等の鳥海山
秀麗な姿の鳥海山は、標高2,236m、東北第2の高さを誇る日本百名山の一つです。庄内地方の方々は「ちょうかいざん」と呼び、秋田の方々は「ちょうかいさん」と呼ぶそうです。
奈良・平安時代、赴任してきた国司も、その姿を見ていたでしょう。
さて、出羽国設置以来、出羽国は天変地異の連続でした。鳥海山はかなりの暴れ山で、噴火に次ぐ噴火、幅30mの溶岩や泥流が2匹の大蛇のようにうねって川や海、麓に流れ込み、死んだ魚で川が塞がったそうです。また、大地震、大津波、大洪水にもみまわれました。そして、蝦夷の反乱も相次ぎ、その都度討伐を繰り返す殺伐とした時代でした。
一方「鳥海山」という呼び名ですが、当時は「大物忌神の山」の名で登場していました。忌とは不吉不浄を忌むということであり、蝦夷を服属させるため、また蝦夷の怨霊を鎮めるため、鳥海山の力を朝廷の味方につけようと畏敬尊崇の対象としたようです。朝廷から高位の官位も授けられ、939年正二位勲三等に任じられました。因みに、江戸時代の八代将軍徳川吉宗と同じ官位です。
○新田目城について
平安時代も中期以降になると、国司が任国へ赴任しないようになります。これを「遥任」と言います。遥任国司は代理人の派遣、または地元の有力農民層などに徴税等の仕事を請け負わせて収入を得るようになります。中央集権国家による国づくりをしていた日本は、徐々に地方政治の転換期を迎え、城輪柵もその流れを受けて城輪柵の西側に位置する新田目城の留守氏がその役目を果たすようになりました。やがて明治時代が訪れるまで続く武士の時代が始まります。
現在、酒田市本楯にある新田目城跡には大物忌神社も鎮座しており、当時の様子がうかがえる土塁や堀があります。
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当時の日本は、律令制度などの法律、租庸調などの税制等、様々な取り組みをして国づくりをしていました。災害や蝦夷の反乱など、出羽国を治めるのは大変だったわけですが、租庸調という税を民から納めてもらわなければなりません。人がいないことには国が成り立ちません。柵戸として、尾張、上野、信濃、越後国などから人々がやって来ました。また、朝廷に服属した蝦夷の民も農耕をする蝦夷(田夷)も加わり、租として米を納めることになります。さらに、服属しない蝦夷に対する兵役も担っていたと思われます。
さて、城輪柵と出羽丘陵の間に「市条」という地名があります。この地名は、当時の条里制の名残とみられ、田の面積を測る単位で、列が「里」、行が「条」、一里一条で6町の広さです。その一条が転化して「市条」となったものと推察されます。出羽丘陵のすぐ西側に位置しており、水が豊富であり農耕に適していたことがわかります。
当時、出羽国の特産物として馬、鷹の羽などが朝廷に貢進されたそうです。また、北海道の渡嶋からの貢物にヒグマ、アシカ、アザラシの皮があったそうです。出羽国は北海道の窓口でもあったようです。